#6 Yohji Yamamotoを山本耀司と呼ぶババァ

変化を要素分解すれば「破壊と再生」、これに尽きると思っている。

大小あれど何かを壊し、代替材を生み出すこと。

進化退化は破壊されたものと代替材の対照評価によって決められる。

 

なにが言いたいか、それは愛着沸かすなってこと。

昔を懐かしむ時間嫌いな人間が、絶対見ないLive Blu-rayを買うのめっちゃアホだって話でもあるし、もっと単純に常に変わり続けていたいのなら物や人に愛着を持つのも持たれるのも愚策だ。

でも、生きてたら好きになったり、思い出になったりするじゃねぇかよ。

当たり前によー

 

切なさと生き方の正面衝突

 

ゲロ吐きそうなほど辛い時もある。

多分俺が断捨離苦手なのも同じ理由。

物を捨てるて!なんかこわっ!怖すぎ!って未だに思っている。

記憶力が皆無だから、想い出なんかいらんの半分くらいは覚えてられないからなのだけれど、同時に物を外部記録媒体として使っているというのもある。

だから普通に怖い。でもそれが、変化。

 

 

切なさと生き方の正面衝突

 

 

過去(クソガキ)の自分が恥ずかしくなるのも、

今(ガキ)の自分が認められないのも、

未来(ジジイ)の自分が耐えられないのも、

 

切なさと生き方の正面衝突

 

 

変わって変わって変わって、

今を肯定するために過去を否定したり、

今の不平を否定するために過去の青さを崇めたり、

うぜーうぜーうぜーうぜー

 

うざすぎる。だったら全部嫌いでいいじゃん。

普通に無理だが。

 

この生ぬるい苦しさをことあるごとに感じるという事象に、名を与え認知した時点でそれはもう呪いだから、ここまで読んだ全員苦しめ。それか払い方を教えて。

 

 

 

※ここで読みとめることを推奨します。

 

 

 

 

 

 

 

乗ってた電車の次の便?が、俺が下りた駅の隣の駅で人身事故を起こした。

ニアピンに次ぐニアピン。......それは近くないか。

俺にはなんも関係ない誰かの自殺の話。

別に死にたければ死ねばいいし、関係ない人間は偲べど泣かずが一番ちょうどいいと思っているからそうする。

なんだけど、俺は少しムカついている。

電車止まったとかはどうでもいい。中央線は別によく停まるから。

車掌がいたらという家仮定の下ではあるのだけれど、飛び降りって誰かを加害者にする自殺だよなって常々思っている。

自死って感じしないよな、殺人強要じゃねぇ?とか。

自殺するくらい追い詰められていた弱者に、苦言を呈するなんて卑劣極まりないと思うけれど、別に弱者だからってなんだって配慮され、なんだって許されると思うなよって彼か彼女かもわからないその人含めた社会的弱者さん全員に向けて言う。

怒り。

自分がそっち側だったら...とか考えていない横暴な情動。

反道徳で非道徳で不道徳。

それでも言う。これは怒りだから。

弱さを持つのは罪でも何でもないし、俺自身弱さの具象化くらい弱いけれど、だからなんだってんだ。弱さじゃなくて弱さを無遠慮にひけらかしたりそれを矛に盾に誰かを変えようとするんが罪だっつー話だ。

甘えんな。悔しさを感じろ。弱さを受け入れろ。不自由に甘んじろ。

 

底抜けに自分を愛しても、底抜けに自分を肯定するな。

お前は間違い、俺も間違う。謙虚でいろ。

怒り!

#5 俺の思っていること大体書いてくれている作家の話と自称に関するエトセトラ (ウソ)

先に言っておかなければならないことがある。

俺の思想は西尾維新の影響が大きいので、

戯言シリーズを読むのが一番手っ取り早い。

以上。

 

 

 

...とは言え俺も私もオイラも人間なので違いはある。

例えば自称。

俺、僕、私、自分、オイラ、おら、ワシ、ワレ、朕...

なんか色んなのを使っている気がする。

しっくりくるのを使っているだけでこだわりなんぞない。

以上。

 

 

 

 

自尊心と自己肯定感についてでも話すか。

 

自尊心。なんとなーく、自尊心は自分が好きかどうかの方が大事な感じ。

自己肯定感は、自分が正しいかどうかが大事?的な。

俺は自己嫌悪人間だが、生きていくに足る程度は自己肯定感を持ち合わせている。

逆に、自分が間違っている意識を持ちながらもそんなお茶目な自分も好きだぜって瞬間がある人もいると思うし、俺も元気な時はそうだったりする。

自分が好きなら基本自己肯定的になるし、嫌いなら否定的になる。

それが当たり前なんだけれど、それでもどちらか一方のみが成立していてもそれは不自然じゃない。

それを二つが連関しているとしても連動していないと考えれば、正しさが拠り所にならないって思うのも不思議じゃないはずだ。

こうあるべきだとか、そうじゃなきゃいけないとか、そういうものはぶち破る為に一時的に身に纏うのが一番楽で、そうじゃない間は意識せず腹に抱えている方がいい。

繭みたいに使っていけばいい。

自己の指針にするには脆すぎる。

 

でも分からん。「あなたは正しい、そこがいいところだよね。」って言われて育ってきた人に正しさに依存すんなやって言っても難しい気がする。

だって、それまでの人生も間違いじゃないもん。

必死にやってぎりぎり生活がままなる、評価や善悪にはこだわれるはずもなく。

そういう瞬間に何度もあって、妥協をして、妥協をする自分を許して、自分の正義の刃に殺されないように堕落すること、大人になるってのはそういうことだと思う。

最悪だぜー

 

気の抜き方とか手の抜き方を覚えても、弱みを武器にしたり節操なく晒したりする人間にはなりたくない。これも「そういうのって正しくない」って縛りだけど、そういう(プラスとかマイナスとかじゃなく)呪いには慣れているからなあ...とか思っている。

 

 

 

 

最後に、

 

俺にとって劇は最高に綺麗で、死ぬほど悔しい想い出。

もう情景の一つも思い出せやしないんだが。

振り返って懐かしめる記憶なんて必要ないと思ってるけど、

ただ一つあの青さだけは失いたくないっていうエゴ。

 

だからぶっちゃけ正直引くほどやる気は起きないんだが、

それでも今の俺にとって選ぶべき選択肢は一つで、

いい過去にも悪い過去にも囚われないよう生きると決めたから、

大きな罪悪感と共に、人に、雰囲気に、縁に流されて、

この記憶を上書きする。

 

 

 

 

 

 

ごめんちょ。

#4 パソコン失くしまして...(短め)

パソコンを失くしてめちゃくちゃ焦ったし、引くほど苛ついていた。

ストレスと睡眠不足でバイト中に蕁麻疹出て全身痒すぎる中仕事をした。

 

パソコンが無いと趣味も勉強もサークルの仕事もままならないし、やる気がわかない。

スマホがないと生きていけないのは確かにそうなんだけど、一日二日くらいはなんとかなる気がする。パソは一日だけでもかなり精神に支障を来す。

 

俺はパソコンが好きだ。

 

スマホは凄いと思う。誰でも使えるように作られている感じがとても頭がいい。

AT車っぽい。特にコピペがデフォルトでプレーンテキスト化するのとフォントサイズが基本的に固定なのがいい。

 

でも俺はごちゃごちゃしたのが好きだからパソコンの方がいい。MT派。

ブログもメールも動画編集もパソでさせてくれ。

 

でかくて片手操作できないコイツがとても好きだ。

 

 

 

叙述的な文章を書く人に憧れるけれど、自分には向いていないのでそういう書き方は今のところするつもりはない。

けれど精神はイカロスなので、投稿しない文章は書くし、ヤクルトを500ml飲むし、いつか江の島にも行く。

つけられた差を恋しく思ったら死ぬし、いつかは追われる側になりたいと思っている。

あとどれだけ金積まれても、ゴミゲーの広告には出ない。

 

生き急いでいる理由の一つでもある。

憧れが多すぎて、その全てが遠すぎて、歩いたって走ったって間に合いそうもなくて、だから人生を懸けて追いついて、追い抜いて、勝ち逃げして笑いたい。

短い人生万歳。

#3 教祖が一番救われたいだろ!

父親からおさがりでもらった服。

最近買ったけどそんなに着なかったらしい。

今断捨離の真っただ中なんだけど。

そう思いながら、貰った。

 

いつもの服に合わせて着たら、これが意外と教祖っぽくていい。

またその組み合わせで着る予定なので、ぜひ見てほしいところではある。

 

教祖っぽい服を着ながら、思った。

「教祖が一番救われたいだろ!」と。

言い忘れていたが、新興宗教の話。

 

世の中にあるは宗教や哲学、思想が飽和していて、学問に寄与したものから、セレブレティたちの考えまで、カジュアルにもフォーマルにも遍く存在している。

アイドルだけじゃなくて、お笑い、音楽、絵画、科学、文学、仕事、エトセトラ、依存したり崇拝したりするに足るものが溢れている世の中で、そのどれにも救われなかった人間のために宗教を興した人、それが教祖。

 

...え?望み薄すぎじゃない?

めちゃくちゃ無謀じゃん。なんでやんの?って。

考えてみるとやはり、自らの思想でしか自らを救えないから、それを正しいと実証したいんじゃないのかなという結論に至る。早計かもしれないけど。

 

もしそうなら信者ってちょー嬉しいんじゃないだろうか。

自分の考えを肯定してくれているようで。

答えの決まっている相談をしているような、そんな無意を感じる。

 

自分が辛い時ほど人の悩みを聞きたくなるのも、それに似ている。

相談なんて基本答えが出ている状況でするものだから、ものを間違えなければ、相談する側がされる側に肯定されるのと同じくらい相談に対する答えは相談者に肯定される。

相談という場において、肯定の等価交換が行わている。


私的な話をするなら、相談しているときには大体答えが自分の中で出ている場合が多い。全部じゃないけど。

圧倒的に時間の無駄、はた迷惑。だけど相談をする。

単純に安心したいってのもある。背中を押してくれるから。

その上で、都合がいいとも思う。相談はエピソードトークとして軽すぎず、かつエピソード単体より長く間が持つ。しんどい時とか、話したいけど話すことがない時とか、よく相談してる気がする。

 

でも、相談する一番の理由は「大否定を待っている」だと思う。

自己嫌悪が人格の核にあると、否定されることが信頼に繋がったりする。

俺みたいなド腐れと付き合っていけるのは、底抜けに性格のいい人たちなので、周りには優しい肯定が残る。とても嬉しい。ありがたい。有り難い幸せ。

なんだけど、どこか疑念もある。自己否定より他者愛の方が強いから不信にはならないまでも少し、ほんの少し贅沢なことを言うと、「それじゃないんだ...欲しいのは。」とか思ってしまう。サイテー

 

この優しい世界で、白も黒もグレーも正解の社会で、私こそが大正解でお前は間違ってる!変われ!って声高に説教してくれる人が、傍にほしい......っていうのが身の丈に合わないくらい大きな欲だ。できればそれが年上か同い年の女性だとしっくり来るんだけれど、それはまァ欲深すぎというものだろう。

 

 

かなり長くなってしまったが、最後に一つ。

僕には推しと呼べる人が一人いる。

その人に望むのは、幸せただ一つ。

俺のことを知らなくても、

誰と結婚しても、

いつ表舞台から去っても、

一点の曇りなく幸せを願える人生の最高位みたいな存在。

本気で命も投げ打てる気がする。

 

普通に好きだなって人もいる。

恋愛感情とかないけど、追っていたいとか見ていたいとか、

身近だったら一緒にご飯食べたいとか、駄弁りたいとか、ハグしたいとか。

そういう人たちのお陰で日々を過ごせている。ありがたい。

 

たった一人、推しとは別に特別な存在がいる。

存在として形容が思いつかないから仮に「お嬢」と呼ぶことにしてみる。

お嬢を一言で表すと、「俺(の人生)の否定」。

お嬢には人間じみた隙があって、共感を誘う。

そのくせ、それを見て「大丈夫だよ」って信頼の等価交換を心の内でしようとする下世話な俺を、僕を、私を、否定するみたいに、次の瞬間には世界を取ってる。

主人公ではない、というと失礼なんだけれどそんな感じ。同じ地平の人間が俺にはできないことをやっている。

安い失敗談を引き合いに出して共感しようとする男を断罪するみたいな眼が...そそる。

多分そんなつもり本人は一切なくて、これも恐らくだけどはちゃめちゃに性格がいい。

文章で伝える人間が一番言っちゃだめだけど、文章じゃイマイチ伝えきれない、そういう俺にしか見えない悪魔みたいな存在。

 

これはフェチズムとか性癖の話ではなくて、人生観の話。

これから対応を変えてくれとかそういう訳でもなく、言うなればただの自慢。

 

俺の人生には、

僕の人生には、

私の人生には、

朕の人生には、

ワシの人生には、

自分の人生には、

 

大好きな自己否定がいる。

 

 

それだけで死ぬまでの暇乞いが華やぐんだから、人生なんてそんな高貴なものじゃないって思える。とてもありがたい。

#2 生きにくさを生きていくとは......?

多分肌が薄いんだが、年々ひどくなっている。

ビジホとかの二つ蛇口があるだけで温度調整のできないシャワーとかかなり苦行で、一度場所を決めたら流しっぱにするしかないからちゃんと洗えてんのかなって不思議になる。

この前久しぶりに温泉に入って、露天風呂がマジで熱かったから半身浴にしたら外気はかなり寒くて風呂のなぞなぞの逆みたいに一人でなった。

夕方から夜にかけ外に出ただけで顔面がひりひり、多分軽度の日焼けをした。

生きにくい。

 

 

 

ありがたい。

他の人がどうとか関係なく、30の自分が耐えられない。

......うん、もう一度想像しても無理だ。

25でもかなりきつい。

俺が末代だ!って気持ちはいつも大事に握りしめているのだけれど、同等以上に死ぬのが怖いわけでいつも死に場所を探してるんだ。

死ぬとき絶対、後悔したい。

そう思いながら生きている。何かを追っている最中に死にたい。

それともうちょっと死ぬとか死生観とかフランクに語らせろ、世の中。

みんな当たり前に死ぬんだぞ、100%だぞ。何が不謹慎だ、ボケ。

一番真面目だろ。エンディングを考えるから途中のストーリーが定まるんだろうが。

 

もっとバカに話したい。死ぬことも。バンズ代わりにパティでステーキを挟んだバーガーがあれば最高だよね。そんなわけねえだろ。ピクルスは入れよう。いらねえよ。製作はバーキンに頼もう。それは......賛成だ。うん、ところでどう死にたい?

 

それくらい自由に語りたい。真面目なことを真面目にお堅く話すことは大事。

それは理解しているつもりなんだけど、そうじゃなくて、腹を割って話そう。もっと。そんな表面的なことじゃなくて。配慮とか気にせずにさ。

外国人を見てもかわいいって思わないとか、~~民族を~~族っていうのはよくないって意味不明だろとか、中高でゲイにストーキングっぽい絡まれ方されたからゲイはあまり得意じゃない......けど恋愛対象が俺じゃなければ応援するぜ!とか、そもそも俺は恋愛できないんだ~とか。

 

そう思っては、いる。

 

思ってはいるけれど、

 

人間はそんなに優しくないのかもしれないし、

 

別に期待していない、

 

............ってことにしている。

#1 富士そばのミニカレーから始まる朝と不眠症

この前ね、ケニア人に言語の話をされたんです。
まァ普通に授業なんですけど。
法律で母語禁止されて、自分らのコミュニティでひそひそとしか喋れなくなって、
学校では宗主国の言語を学ばされる。
そしたら、いつの間にか、自分たちが母語を話すことが悪いことなんじゃと思い出す。
そして、英語に傾倒して、アイデンティティ喪失~

 

みたいな話だったと思うんだが、オラ英語わかんねえから違うかも。

でこれを聞いて宗主国クソがーとかブリカスがーとか思ったって話ではなく、
キリスト文化だ!って思った訳ですよ。

 

母語を使うって当たり前のことに罪悪感を覚えさせ隷属させていく手法って、
原罪を元手にイエスを救世主にしたて信仰させたのと同じ手口じゃねえかと。

深読みかなぁとか読み違いかなぁとか思ったりしちゃったりするが、
思ったもんは仕方ねえということでこの結論で終わろうと思うぜ。

 

 

結構前というか、去年の秋口から思ってたことだが、
「授業いなかった・トんだ」と「バイトどうだこうだ」
この二つの話題、多分くそおもんない。
...とか言いつつワシもほぼその話しかしないんですけど。

 

それでも流石につまんねーぜって思いますねぇ。
誰か海行った話とか山行った話とか乗ってた電車が人撥ねた話とか
そういう話してくれ。そしたら、めちゃくちゃ楽しいから。
そうじゃなくてももっとバカな話したいよ。
大学生と授業・バイトの結びつきが強すぎてバカになれないよその話題。

 

ネットプリントを文化として涵養していく役目を担おうと思い始めた。
そうして、旧ツイッターで印刷するものを探していたんですけれど、
西川口ノーヘイト包囲網ってハッシュタグでいくつか引っかかるんすねぇ。
名前から察してほしいんだけど、プラカードとか印刷して貼るだけで作れるやつ。
マジでね、デザインが無駄にいいんだよ。
政治信条に関してここで語る気はないんだけれど、
デモが悪いことというわけではないんだけれど、
それがデモ用じゃなければ気兼ねなく印刷できたぜってものが沢山あって、
切なかった。